若い頃の私は、お金持ちに憧れていた。
当時は仕事の収入が決して高くなく、「もっとお金があれば、欲しいものを自由に買えるのに」と思っていた。
高級な腕時計、高級車、大きな家。
お金持ちになれば、そうしたものを手に入れられる。そして、欲しいものを手に入れれば、きっと今より豊かで幸せな気持ちになれる。
そんなイメージを持っていたのだと思う。
ところが、転職をして収入が増え、以前よりもまとまったお金を自由に使えるようになると、少し意外なことが起きた。
欲しいものが、思ったほど増えなかったのである。
むしろ、以前より物欲が減っていった。
最近読んだモーガン・ハウセルの『The Art of Spending Money』は、そんな自分のお金の使い方を改めて考えるきっかけになった。
この記事では、この本から考えたことに加えて、私自身の腕時計、ロードバイク、軽バンなどの買い物経験、そして消費と幸福についての心理学研究を交えながら、「お金を何に使うと人生が豊かになるのか」を考えてみたい。
『The Art of Spending Money』は「節約の本」ではない
『The Art of Spending Money』の著者は、ベストセラー『The Psychology of Money』でも知られるモーガン・ハウセル。
2025年10月に刊行された本書は256ページで、タイトル通り「お金をどう使うか」が中心テーマになっている。出版社の紹介でも、予算管理や節約テクニックを教える本ではなく、お金との関係を理解し、自分にとって価値のあるものに使うための本と位置づけられている。
特に印象に残ったのが、
「Utility(実用性)」と「Status(ステータス)」を混同しない
という考え方だ。
私たちは、何かを買うとき、本当にそれが欲しいのか、それとも「それを持っている自分を他人にどう見てほしいのか」が分からなくなることがある。
高級車、高級時計、ブランド品などは、その典型かもしれない。
もちろん、それらが悪いわけではない。
問題なのは、
「自分が欲しいから買う」のか
「人からすごいと思われたいから買う」のか
という違いだ。
お金がなかった頃は「お金があれば幸せになれる」と思っていた
若い頃の私は、今より収入が少なかった。
だから、お金を持っている人を見ると羨ましく感じた。
「もっと稼げれば、もっと自由になれる」
「もっとお金があれば、欲しいものを我慢しなくて済む」
これは決して間違った考えではないと思う。
実際、お金が少ないと生活上の選択肢は狭くなる。
必要なものを買うことすら難しい場合もあるし、突然の出費に対応できないこともある。
だから、ある程度までお金が増えることは、確実に生活を豊かにしてくれる。
しかし、ある程度の余裕を超えたところから、話が少し変わってくる。
「買えない」から「買える」に変わったとき、
欲しかったものが全部欲しくなるわけではなかった。
むしろ、
「これ、本当に必要かな?」
と考えるようになった。
初めてまとまったお金を手にして買った20万円の腕時計
転職して、初めてまとまったお金を自由に使えるようになったとき、私は20万円ほどする機械式腕時計を買った。
これは完全に「憧れ」の買い物だったと思う。
機械式時計を身につけることへの憧れ。
高価な腕時計を所有することへの憧れ。
若い頃に抱いていた「お金持ち」のイメージ。
そうしたものが購入の動機になっていた。
そして実際に買ったときは嬉しかった。
「ついに自分も、こういう時計を買えるようになった」
という達成感もあった。
だから、この買い物を失敗だったとは思っていない。
むしろ、その時の自分にとっては必要な経験だったのだと思う。
ただ、今の自分はその時計ではなく、数万円程度のスマートウォッチを使っている。
時間を見る。
通知を確認する。
健康や運動のデータを見る。
私にとって現在の腕時計の価値は、そうした実用性にある。
かつて20万円の機械式腕時計に感じていた価値を、今では数万円のスマートウォッチのほうに感じている。
これは「20万円の時計は無駄だった」という話ではない。
自分にとってのお金の価値基準が変わったということなのだと思う。

一方、30万円のロードバイクは今でも現役
同じ頃、私は30万円ほどするロードバイクも購入した。
こちらは腕時計とは少し違う。
ロードバイクを購入した理由は、見栄というより実用性だった。
もちろん趣味としての楽しさもある。
しかし、運動ができる。
遠くまで自分の力で移動できる。
健康維持にもなる。
そして、実際に今でも月に数回はロングライドに使っている。
つまり、購入から時間が経っても、そのロードバイクから継続的に価値を受け取っている。
ここから気づいたのは、
「高い買い物=悪い買い物」ではない
ということだ。
30万円のロードバイクは、私にとって今でも価値がある。
一方で、20万円の機械式腕時計は、現在の自分にとってはスマートウォッチのほうが便利になった。
金額だけを比較しても意味がない。
大切なのは、
「そのお金を使うことで、自分の生活にどんな価値が生まれたのか」
なのだと思う。
「物」より「経験」が幸せを生みやすい?
ここには、心理学の研究にも興味深い知見がある。
Van BovenとGilovichによる2003年の研究では、物を所有するための消費よりも、旅行やコンサートなどの「経験」を目的とした消費のほうが、幸福につながりやすいという結果が報告された。
さらにCarterとGilovichによる2010年の研究では、物の購入は「もっと別の商品を選べばよかった」「他の人が持っているもののほうが良い」など、比較によって満足度が損なわれやすいことが示された。一方、経験への支出は、こうした比較の影響を受けにくかった。
これは非常に興味深い。
例えば、
「20万円の時計を買った」
だけなら、他人が30万円、50万円、100万円の時計をしていることが気になってしまうかもしれない。
「自分より良い時計を持っている人」が、いくらでも存在するからだ。
一方で、
「自転車で100km走ってきた」
という経験は、他人のロードバイクが100万円だったとしても、自分が楽しんだ経験そのものがなくなるわけではない。
もちろん、ロードバイクも物ではある。
しかし、その価値のかなりの部分は「所有すること」ではなく、それを使って何をするかにある。
だから私の場合、ロードバイクは「物を買った」というより、「運動やロングライドという経験を生み出す道具を買った」と考えるほうが近いのかもしれない。

ただし、「経験なら必ず幸せ」というわけでもない
ここは注意したいところだ。
「物より経験」という研究結果だけを見て、
「高級品を買うのはダメ。旅行や体験にお金を使えば幸せになれる」
と単純化するのも違うと思う。
2018年の研究では、経験消費が物質的消費より幸福につながる傾向は、社会経済的な状況によって異なることが報告されている。資源が豊富な人では経験消費の優位性が見られた一方、資源が限られている人では物の購入のほうが幸福につながる場合もあった。
そもそも、生活に必要な家電や家具、良い靴、快適な住環境などは、立派な「物」だ。
それによって毎日の生活が便利になるのであれば、十分に良いお金の使い方だと思う。
だから重要なのは、
「物か経験か」ではなく、「その支出が自分の人生にどんな価値をもたらすのか」
なのだろう。
お金は「自分に合ったところ」に使うと価値が高くなる
さらに面白い研究がある。
Cambridgeの研究者らが7万6,000件以上の銀行取引記録を分析した研究では、人は自分の性格に合った商品により多く支出しており、自分の性格と購入内容がより一致している人ほど人生満足度が高かったと報告されている。
これは、私自身の経験にもかなり当てはまる。
私はDIYや自転車、生活を便利にする道具などには比較的お金を使う。
一方、他人から見て高級に見えるものには、それほど興味がなくなった。
以前は「お金持ちなら高級品を買うもの」と考えていた。
今は、
「自分が好きでもないものを、他人からよく見られるためだけに買う必要はない」
と思うようになった。
軽バンを選んだことは、今の自分の価値観を象徴している
この変化を最も象徴しているのが、車選びかもしれない。
経済的に余裕ができれば、もっと高級な車を買うこともできる。
しかし、自分が選んだのは軽バンだった。
軽バンには、見栄という意味ではあまり大きな価値はないかもしれない。
でも、自分の生活には非常に合っている。
荷物が載る。
DIYにも使える。
維持費を抑えられる。
日常の移動にも十分使える。
つまり、
他人からどう見えるかではなく、自分の生活に何が必要なのか
という基準で選んでいる。
これが今の自分のお金の使い方をかなり象徴している気がする。

「高いものを買わない」ことが、お金の使い方が上手いわけではない
ここまで考えてみると、私は「節約」と「お金を上手に使うこと」は少し違うと思うようになった。
例えば、30万円のロードバイクを買って10年間使い続ける。
それによって運動ができ、ロングライドを楽しみ、健康維持にもつながるのであれば、その30万円にはかなり大きな価値がある。
一方で、安いからという理由だけで買ったものをほとんど使わなければ、それは安くても良い買い物とは言えない。
逆もある。
高価なものでも、自分がほとんど使わなければ、価値を生み出しにくい。
だから、金額だけでは判断できない。
重要なのは「価格」ではなく「自分にとっての価値」だ。
「見栄のためのお金」は終わりがない
そして、『The Art of Spending Money』を読んで特に共感したのが、「ステータス」の問題だ。
他人から「すごい」と思われるためにお金を使い始めると、上には上がいる。
20万円の時計を買えば、50万円の時計をしている人がいる。
高級車を買えば、さらに高い車がある。
大きな家を買えば、もっと大きな家に住んでいる人がいる。
SNSを見れば、いくらでも上を見ることができる。
このゲームには、明確なゴールがない。
心理学研究でも、物の購入は他の選択肢や他人の所有物との比較によって満足度が損なわれやすいことが示されている。
だから、
「他人より豊かに見えること」を目的にした消費は、かなり難しいゲームなのだと思う。
では、お金は何に使えばいいのか
では、見栄のために使わないなら、お金は何に使えばいいのだろう。
私は今のところ、
「自分の人生を良くするもの」
に使えばいいと思っている。
例えば、
- 健康
- 家族との時間
- 趣味
- 快適な住環境
- 自分の時間を増やすこと
- 学び
- 移動の自由
- 将来の安心
- 本当に好きなもの
などだ。
面白いことに、「時間を買う」というお金の使い方にも研究上の裏付けがある。
Whillansらの研究では、家事などの負担を減らして時間を買うためにお金を使うことが、幸福度を高める可能性が示されている。
つまり、お金は「物」を買うためだけのものではない。
時間や自由、安心、健康、経験を買うためにも使える。
「使わないこと」が正解でもない
ここも重要だと思う。
お金の話をすると、どうしても「節約して投資すること」が正義になりやすい。
もちろん、将来のために貯めることは重要だ。
でも、お金を貯めることそのものが人生の目的になってしまうと、それもまたお金に人生を支配される状態になり得る。
『The Art of Spending Money』が面白いのは、単純に「もっと使え」と言っているわけでも、「もっと節約しろ」と言っているわけでもないところだ。
出版社の紹介でも、本書は「お金持ちになること」ではなく、すでに持っているお金を使って、どう人生をより良くするかを考える本と説明されている。
これは、資産形成をある程度してきた人ほど重要なテーマなのかもしれない。
私にとっての「豊かさ」は変わった
若い頃は、
「欲しいものを買える人=豊かな人」
だと思っていた。
今は少し違う。
むしろ、
「欲しいものを自分で選べる人=豊かな人」
なのではないかと思っている。
何でも買えるようになった結果、何でも欲しくなるわけではない。
むしろ、買えるようになったからこそ、
「これは自分には必要ない」
「これは高くても欲しい」
「これは安くてもいらない」
という判断ができるようになってきた。
20万円の機械式腕時計を買った経験も、30万円のロードバイクを買った経験も、無駄ではなかった。
腕時計を買ったことで、自分が「所有すること」にどれくらい価値を感じるのかが分かった。
ロードバイクを買ったことで、自分が「健康」「趣味」「経験」にどれくらい価値を感じるのかが分かった。
そして今は、スマートウォッチや軽バンのような、より実用性の高いものを選ぶようになった。
豊かさとは「欲しいものが増えること」ではない
以前は、お金が増えれば人生が豊かになると思っていた。
今でも、それはある意味では正しいと思う。
お金があれば、選択肢が増える。
不測の事態にも対応できる。
働き方を選べる。
好きなことに時間を使える。
でも、その先にはもう一つ重要なことがある。
選択肢が増えた後、何を選ぶのか。
そこに、お金の使い方の本当の難しさがあるのだと思う。
お金が増えることによって、欲しいものを増やしていくのではなく、
「自分にとって本当に価値があるもの」を少しずつ見つけていく。
それができるようになると、お金の使い方はずいぶん変わる。
高級品を買わなくてもいい。
安いものだけを選ぶ必要もない。
必要なら高いものを買えばいい。
そして、必要なければ買わなければいい。
30万円のロードバイクを買ってもいい。
数万円のスマートウォッチを選んでもいい。
軽バンに乗ってもいい。
大切なのは、その選択を**「他人からどう見られるか」ではなく、「自分の人生にどんな価値をもたらすか」**で決めることなのだと思う。
『The Art of Spending Money』を読んで、改めてそんなことを考えた。
そして今振り返ると、若い頃に憧れていた「お金持ち」と、今の自分が目指している「豊かさ」は、どうやら少し違うものだったようだ。
豊かさとは、買えるものの数ではない。
自分にとって必要なものと、必要でないものを、自分自身で決められること。
今のところ、私はそれが「お金を上手に使う」ということなのではないかと思っている。

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